◇大国主神社
大国主神社の恵比寿
四ツ橋筋添いの大阪地下鉄御堂筋線(四ツ橋線)の大国町の駅からすぐそばにあります。
社伝によれば、神功皇后が三韓を平定されて住吉大社に凱旋報告のため、敷津浦を航海されたとき、敷津浜に荒い波がうちよせられるのを見られ、『これから汐が満ちてはいけません』と松の木を渚に三本植え、素戔鳴尊(すさのおのみこと)をお祀りになり航海の安全を祈られたことから「松之宮」と呼ばれたとあります。
敷津松之宮と“木津の大国さん”で知られる大国主神社とが相殿となっています。
境内には木津勘助の銅像と折口信夫の歌碑があります。
毎年1月9日から11日には大国まつりが行なわれ、にぎわいます。
大国さんの祠には狛犬さんではなく、こまねずみさんでした。
四ツ橋筋側から見たらこの鳥居は東向き。 この鳥居が南向きなのでおそらくこれが正面。
木津の勘助
講談や浪曲でお馴染みの木津の勘助。
本名を中村勘助と言い、1586年(天正14年)相模の 国(足柄)で生まれ生まれ、1660年(万治3年)75歳で没と伝わっていますが不明確です。大阪の伝説的な英雄で豊臣秀吉の大坂城築城の際の土木工事や河川の開発を請負い大変重用されました。 また松平忠明にたいへん重用され、川崎の東照宮普請や河川御用係として活躍したそうです。豊臣家滅亡後、大阪城主となった松平忠明が1616年に東照宮を天満に建設する際、中村勘助が造営係となり、用地に住んでいた住民を先に開発した姫島に円満移転させる手腕をも見せている。
慶長から元和にかけて活躍した土木技術者で木津川を開削し、勘助島(勘助町:現浪速区大国町)の開発に当たりました。 木津川の治水と周囲の開発に成功し、沿岸の人達から大変尊敬され、 敷津西一丁目の鴎町公園北の西角に建っている碑文には「橋は無くとも勘助橋は残りますぞへいつまでも」と刻まれています。 1639 (寛永16)年、近畿一円が冷害にみまわれ大飢饉の様子であった際、 大阪城の備蓄米の放出を願い出たが聞き入れられず、私財を投げうっ て村人に分け与えました。 1641年(寛永18年)の大飢饉のおり、私財を投じて困窮者を救ったもののらちがあかず、 幕府の米蔵米蔵を無断で開け放ち米を分配したことで知られています。(筑前橋の前に有る福岡黒田藩の米蔵を破りその米を分け与えました。当時の大坂町奉行久貝因幡守は、幕府直轄の蔵米でなく外様の黒田藩が天王寺屋に売った後の米であったため、木津勘助が飢饉で飢えた市民を救済したことを内心喜んでいたそうです。)その罪のために死罪となりましたが 町民からの申し入れが途切れずその結果、姫島(現在の大正区)に島流しという粋なはからいがありました が1660年(万治3)年没、享年75歳。
お墓は唯専寺(浪速区敷津西2丁目13番)にあるそうです。慶長15年(1610)、木津川尻の小島で、姫島(日女島)または丸島を木津村の中村勘助が開発したので、勘助島と呼ばれ三軒家村の始まりで、三軒家の地名は、勘助がこの地を開発した当時、三軒の民家が建てられた事からこの名前が付いた。 地図の左が「勘助嶋田地」で右のほうにはナンバ御蔵があります。また落語の「木津の勘助」は地図の真ん中あたりに有る「テツゲンジ」(鉄眼寺)に墓参りをして淀屋さんと知り合います。
木津の勘助さん関連の追加情報です。大正区三軒家にある八坂神社さんに碑と勘助さんが植えた銀杏の記がありました。 八垂銀杏樹崇拝場 中村勘助大人が慶長15年に大阪港湾の基礎建設の記念として、また其の都市に 著しい疾病が流行したので無病息災を祈願し時の神官総代と共に植樹され 樹齢300年以上経たもので戦災を被り形見と残り、その根元より新生の 若木が一対となり成長、今日に至り病気平癒夫婦和合の霊験あらたかなご神木です。
実際にお参りして
大国町は子供のときからたびたび来ていた記憶があります。この交差点には「靴のアポロ」「トミヤマ」等の靴屋さんがいっぱいあって便利なとこでしたが今はまったく面影はありません。そんな交差点のすぐ横にある大国主神社・・なにかあるのは知っていましたが実際にお参りしたのは初めての事。ましてや「木津の勘助」??だれ??それ??みたいな私でした。いままで知らなくてごめんなさい。