◇ 宝満寺

【大阪七福神めぐり】【大阪市内】
◇崑崙山 寶満寺、大乗坊


 もとは四天王寺の東北方、牛崎にあり、寶満寺三十七院坊の一寺として四天王寺守護院の一端を担う。 しかし天文、天正の頃織田信長の石山本願寺攻め合戦の巻き添えにて再三兵火にかかるため、当時のご住職・秀言律師がご本尊の毘沙門天の仏頭を奉じて、難波村名呉街(現在の日本橋)に逃れて大乗坊のみ再興されました。
 その後寺勢大いにあがり「摂津名所図絵」などに浪速名所の一つとして長町毘沙門堂の名が上げられるようになった。


 
 数少ない浪速の毘沙門天ということから「日本橋の毘沙門さん」として人びとの信仰を集め、現在に至っています。 江戸時代は境内千坪。寺領域外周一里を有していました。また浪花の富籤の発行勧進寺院として賑わっていました。(富くじは落語の高津の富が有名です)

  第二次大戦の戦禍で全焼の悲運にあいました、幸い本尊は焼失をまぬがれる事が出来ました。



  毎年5月第二日曜日と11月第二日曜日は御開帳法要が行われます。

  清め不動明王様・制多迦童子(せいたかどうじ)様・矜羯羅童子(こんがらどうじ)様がいらっしゃいます。ちなみに不動明王様は大日如来様の化身で、右手に三鈷剣、左手に羂索(けんじゃく)を持っておられます。また背には迦楼羅焔(かるらえん)の形をした炎を背負い、憤怒の相で粗岩(磐石(ばんじゃく))の上に座しておられます。また横にいる童子は矜羯羅童子(優しいお顔)と制多迦童子(厳しいお顔)をされています。



  実際にお参りして

おたっきーな私は学生の事は日本橋まで自転車で遊びにきていました。
 当時の日本橋は今よりももっと電気屋さんばっかし。ソフマップやメイド喫茶も無い時期です。上新電機と二ノ宮無線がシェア争いをしていたようにおもいます。
 メインストリートではなく裏道に有る小さなお店をまわっていました。おそらくこの宝満寺さんの前も何度も通っているはず。まったく知りませんでした。こんな由緒のあるお寺があったなんて。いままでごめんなさい。