◆四条畷神社

【大阪七幸めぐり】【大阪市内】
◆四条畷神社


 【大阪七幸めぐり
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 四条畷神社は四條畷の戦いで敗死した楠木正行を主祭神とした、一族の将士二十四人を配祀しています。


 現在も楠木正成、正行親子は地元の人々から「楠公さん(なんこうさん)」と呼ばれ慕われていています。 御祭神  楠 正行(くすのき まさつら)公(小楠公)はじめ25柱をおまつりしています。 鎌倉末期、皇位の継承が公卿・幕府の思惑がからんでもつれたとき、不利を覚悟で一身をなげうって飽くまで正統の天皇を守り、明治維新の原動力となった楠 正成(くすのきまさしげ)公(大楠公)の嫡男で、父にも劣らぬ忠孝両全、情厚く、智勇にすぐれた正行公(小楠公)を主神に弟、、正時(まさとき)以下24柱を配祀しています。明治天皇は特に楠公がお気に入りで、正成公には正一位を追贈し、別格官幣社第一号として神戸湊川神社をお祭りになり、正行公には明治30年に従二位を追贈された。地元の住吉平田神社の神主、三牧文吾らは、小楠公の殉死のこの地に神社創建を熱心に願い出て、明治22年に勅許がくだり、四条畷神社という社号がくだされ、別格官幣社(主に国家の忠臣を祭る)に列格され明治23年四月5日御鎮座を挙げました。  延元元年/建武3年(1336年)の湊川の戦いで父の正成が戦死した後、覚悟していたこととはいえ、父・正成の首級が届き、 衝撃のあまり、仏間に入り父の形見の菊水の短刀で自刃しようとしましたが、生母に諭され、改心したという逸話がのこっています。(『太平記』のみ記述。『梅松論』には一切記されていない)。  正成無き後、正行は楠木家の棟梁となり、南朝方として戦い、足利幕府の山名時氏・細川顕氏連合軍を摂津国天王寺・住吉浜にて打ち破りました。 摂津国天王寺・住吉浜にて足利幕府の連合軍を打ち破った際に、敗走し摂津国・渡部橋に溺れる敵兵を助け手当をし、衣服を与え、敵陣へ送り帰した。この事に恩を感じ、後の四条畷の戦いに楠木勢として参戦した者が多かったと伝えられています。  



■正平3年/貞和4年(1348年)に河内国北條(現在の大阪府四條畷市)で行われた四條畷の戦い(四條縄手)において足利方の高師直・師泰兄弟と戦って敗北し、弟の楠木正時と刺し違えて自害しました。(享年は明確ではありません)。 辞世の句 四条畷合戦に赴く際、辞世の句(後述)を吉野の如意輪寺の門扉に矢じりで彫ったことが有名です。決戦を前に、正行は弟正時・和田賢秀ら一族を率いて吉野行宮に参内、後村上天皇より「朕汝を以て股肱とす。慎んで命を全うすべし」との仰せを頂きました。しかし決死の覚悟は強く参内後に後醍醐天皇の御廟に参り、その時決死の覚悟の一族・郎党143名の名前を如意輪堂の壁板を過去帳に見立てその名を記して、その奥に辞世を書き付け自らの遺髪を奉納したそうです。

辞世 - かへらじと かねて思へば梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる



■御祭神 楠天神社(くすのきてんじんじゃ) 菅原道真を祭る。学問の神様と崇められる。文教・至誠の神。昭和38年9月25日御鎮座。幕末の志士、真木和泉守(まきいずみのかみ)は常に菅公・楠公を崇敬していました。 御妣神社(みおやじんじゃ) 小楠公御母堂を祭る。大楠公亡き後、正行公を始め恩兄弟を、正しく導き国家の忠臣として育てあげられた。賢母の教えを慕う地元の婦人達の願いにより、女性の鏡・子育ての大神として祭られる。大正14年10月5日鎮座。


■主要恒例祭 2月12日 例大祭(御命日・旧1月5日) 4月5日 春季大祭 10月5日 秋季大祭

■橋房太郎君紀功脾




淀川の治水工事の功労者の大橋房太郎さんの脾です。
明治18年6月の明治大洪水は、淀川流域に大きな被害をもたらしました。 現在の放出出身である大橋房太郎は、この洪水の被害の跡を小蒸気船でくまなく視察し、二度とこのような被害を引き起こさないために淀川の治水事業を行うことを固く決心しました。 国や府に対して淀川改修の必要性を訴え続け、大阪府議会議員の立場から内務大臣や総理大臣とも面会しました。房太郎が半生を賭けて力を注いだ淀川増補工事が完成したのは昭和5年のことでした。 1515年(室町時代)創建の大阪市鶴見区の正因寺には、治水事業に一生をささげた大橋房太郎(一九三五年没)が眠っています。その墓の前に2003年7月、近くに架かる放出大橋たもとにあった記念碑「六郷修堤碑」が移設されました。  
 碑は1894(明治27)年に寝屋川改修を記念して建てられました。現在の寝屋川のもとになった六郷川の度重なる水害に悩む村民の様子や、当時の村長だった房太郎の取り組みなどが記されているそうです。

■神明鳥居 御鎮座100年にあたり伊勢神宮より拝受した鳥居。(平成2年10月)




■桜井の別れ
楠木正成は元弘元年(1331年)後醍醐天皇のお召しにより鎌倉幕府打倒に立ち上がり幕府は滅亡したが足利尊氏の反乱によって各地で再び戦闘が勃発。1336年(延元1年)正成は後醍醐天皇に命じられ、足利尊氏の大軍を迎え討つべく兵庫へ向かい殉死した。 正成が討伐に向かう途中、桜井の地(大阪府三島郡島本町)にて息子の正行(まさつら:当時11歳)に後事を託し別れを告げた。





「青葉茂れる桜井の」                   
落合直文作詞、 奥山朝恭作曲

青葉茂れる桜井の 
里のわたりの夕まぐれ
木(こ)の下蔭に(したかげ)に駒(こま)とめて  
世の行く末(ゆくすえをつくづくと
忍ぶ鎧(よろい)の袖の上に 散るは涙かはた露か
正成(まさしげ)涙を打ち払い
我子正行(まさつら)呼び寄せて 父は兵庫に赴(おもむ)かん

彼方の(かなたの)浦にて討死(うちじに)せん
 いましはここ迄来(きつ)れども とくとく帰れ故郷(ふるさと)へ
父上いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人
いかで帰らん帰られん 此(この)正行(まさつら)は年こそは
未(いま)だ若けれ諸共(もろとも)に
御供(おんとも)仕(つか)えん死出(しで)の旅

いましをここより帰さんば わが私(わたくし)の為ならず
己討死為さんには 世は尊氏(たかうじ)の儘(まま)ならん
早く誠意立ち大君に 仕えまつれよ国の為め

此一刀(このひとふり)は往(いに)年 君の賜いし物なるぞ
此世の別れの形見にと いましにこれを贈りてん
行けよ正行(まさつら)故郷(ふるさと)へ 老いたる母の待ちまさん

共に見送り見反りて  別れを惜しみ折からに
複(また)も降り来る五月雨(さみだれ)の 空に聞こゆる時鳥(ほととぎす)
誰か哀れ(あわれ)と聞かざらん あわれ血に泣く其声(そのこえ)を


■すごい山の上にあります。



実際にお参りして 市内から車で1時間程度。阪奈の上り口近くにあるだけに四条畷神社の駐車場への道はまぢで怖かったです。車が横転する??とおもえるくらいの上り坂と急カーブがあるのでもうどっきどきww。神社の入り口に20台以上?停められそうなとこもあるので大丈夫そう。でも結婚式とかあるとNGかも。





◆時代を超えた楠木正成公
赤穂浪士の討ち入りが起こったのは1703年、そして南北朝時代の湊川の戦いがおこったのは1336年。また戊辰戦争は1868年で第二次世界大戦終戦は1945年。
すなわち、湊川の戦いから367年後に赤穂浪士討ち入りがあり、その165年後に戊辰戦争が、そして77年後に第二次世界大戦終戦となっている。
これらの共通点は。。
「七生報国」の考え方は「七回生まれかわってでも、逆賊を滅ぼし、国に報いてみせる」とした楠正成の言葉で、天皇にお仕えする気持ちと、自分が死ぬとわかっていても戦い抜くという気持ちの現れです。これが「忠義」でありこれは私的には『義』(正しいと信じる事)を『忠』(心を込めて尽くす事)する事にあります。この場合は、後醍醐天皇の為に尽くす事だったのでしょう。
そして1701年。天下泰平の世になり戦も途絶え、安穏とした世情におこった刃傷事件から発し赤穂義士の討ち入りが行われました。
47人誰もが生き延びるつもりもなくまさに「君臣湊川」の思い。
湊川の戦いで負けると分かっていた楠正成公の戦いを現した言葉だけが安静の世に「太平記」として精神論として残り、武士道と絡まり合って山鹿素行の唱えた山鹿流兵学での討ち入りを行ったのでしょう。
その165年後には戊辰戦争が勃発。
その原動力となった長州藩としての方針は「奉勅攘夷」であり「君臣湊川の思いで攘夷を行う」を明言していた時期があります。
余談ですが私的に幕末史の興味深い点は、徳川体制の崩壊とともに各藩の思想が移り変わる点にあり、徳川命であった会津藩VS長州VS薩摩VS土佐等かな?と考えています。
77年後の第二次世界大戦。
「菊水作戦」と称する特攻、頭に「報国」の鉢巻。。
お国の為に自分の命をかける者を良しとする教育の原点に近いところが湊川の戦いなのでしょう。
戦後70年が過ぎた現在。
NHK大河ドラマで『花燃ゆ』が急に決定し吉田松陰先生の妹を取り上げる事の意味や
安全保障法案に秘密保護法にマイナンバー法案。極東のわがままな国に、中近東のきな臭い昨今。
危険な方向に進んでいるような気がしてなりません。