川崎東照宮の存在がきっかけとなって天満宮や萩の寺、また和歌山東照宮、日吉東照宮などをお参りしましたがおそらく手がかりとしては最後の地である大阪中津の豊崎神社さんに突き当たりました。
豊崎神社 伝承によりますとこの地は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮跡地で、宮の廃された後、 荒地となり、跡地一帯は松林となったため、八本松と称されるようになったという。
正歴年間(990~995)、藤原重治がこの地を開墾する際に跡地が埋滅してしまう事を恐れ、 樹林中に小祠を建立して孝徳天皇を祀ったといわれこれが豊崎神社のはじまりです。
のちには村人たちの願いにより、須佐男命が合祀された。 明和 9年(1772) 6月29日の火災により、社殿等のみならず、由来書なども悉く焼失。 豊崎神社の由緒等については定かではないといわれる。
※明和9年で有名な出来事の「明和の大火」は江戸の大火事。「明和9年は迷惑年」 この豊崎神社・東照宮のくだりは《長柄郷士詩》には下記のように記載されています。
明治五年村社に列せられ、明治四十一年四月七日大字南長柄の村社八幡神社を本殿に合祀 し、又近くにあった無格者東照宮社(徳川家康)を境内に合併し、更に同嚴島神社(市杵島姫命) を同東照宮社に合祀した。
東照宮社は慶長十九年大阪冬の陣のとき徳川家康微傷を帯び、同村足立市兵衛の宅へ立寄 りたる際、市兵衛より差出せる麥飯を食べ頗る満足その姓を尋ね足立であると答へたによ り、家康大に喜び永く足立と唱へよとて紋章等を賜った因みにより、安永五年三月旧領 主田安家へ出願許可を得て足立家邸宅内へ鎭守として崇奉祭祀したものだといふ。
境内は二千五百四十一坪を有し、本殿、幣殿、拜殿、神輿庫、神具庫、社務所等相連り、 末社に豊受皇太神宮、恵美須神社、鹿島神社がある。
鹿島神社の祭神は武甕槌命で寛永の初め、諸國に疫病流行したので常陸國から勧請し、神 輿を渡して平寧を祈ったといふ。 當時鹿島踊が盛んであったが今はない。
攝津名所圖會にいふ。 ※摂津名所図会に掲載されているそうです。後日確認してみます。
つまり《東照宮》に関して簡単に整理するとこうなります。
・元和2年(1616)川崎東照宮創建
・安永5年(1776)本庄杉山の足立家邸宅内へ鎮守として東照宮が勧請
・明治5年(1872)豊崎神社が村社に列せられる
・明治6年(1873)廃社 ・明治40年(1907)廃社後も「権現まつり」はこの年まで続く
・明治40年(1907)南長柄の村社の八幡神社を本殿に合祀。同時に東照宮を境内に遷し、相殿として厳島神社を東照宮に合祀。
・昭和57年(1982)萩の寺の古文書により廃社直前に遷座されていることが判明
豊崎神社の風景
所在地: 〒531-0072 大阪府大阪市北区豊崎6丁目6-4 電話: 06-6371-5264