和光寺 大阪市西区

和光寺

智善上人が善光寺(長野県)本尊出現の地として寺堂を建立し、蓮池山智善院和光寺と称したと伝える。 1698年(元禄11年)堀江新地開発のとき、江戸幕府の命令で境内地を1800坪とし永代寺地と定めています。
 智善上人は大和国大和郡山(奈良県大和郡山市)の柳沢家の出身で、 信州・善光寺大本願第113世の光蓮社心誉智善上人であり、1727年(享保12年)7月21日に没した。



 『摂津名所図会』によると、江戸時代には本堂のほかに観音堂・普門堂・愛染堂・薬師堂・抹香地蔵・ 閻魔堂・地蔵堂・金毘羅権現・金銅地蔵・鐘堂などを有する大寺で、境内の一隅阿弥陀池の中央には 放光閣という宝塔があり、境内および周辺には構釈の寄席・浄瑠璃の席・大弓や揚弓・あやつり芝居・ 軽業の見世物や物売りの店が並び、毎年2月の涅槃会や4月の灌仏会は、ことににぎやかであった。
富くじの興行や植木市も有名であったが、 『摂津名所図会』に「世の人寺号を唱へずして阿弥陀池とのみいふ」とあるように、 阿弥陀池の名で知られ、講談・落語・演劇の題材として取り上げられている。



 1945年(昭和20年)3月13日、太平洋戦争による空襲で本堂・諸堂などが焼失。
 戦後は区画整理のため境内地が削られたが1947年(昭和22年)には仮本堂を建立。放光閣も再建された。



1953年(昭和28年)には庫裡が完成、1961年(昭和36年)6月15日、本堂の落慶法要が営まれた。


 信州・善光寺本尊 欽明天皇13年、百済国より仏教伝来とともに伝わった日本最古の仏像で 長野県の善光寺本尊である一光三尊の阿弥陀如来が、崇仏・廃仏の論争が続く中、 廃仏派の物部氏により難波の堀江に棄てられてしまいました。 (仏教伝来移行、疫病がはやったため) その後、信濃国国司・本田善光が難波の堀江に棄てられた阿弥陀如来を池より救ったことから この池が阿弥陀池といわれるようになりました。

またその本尊を元禄7年(1694)四天王寺でご開帳したときに、当地に堂を構えたのが和光寺の起こりです。

後に池から救い出された阿弥陀如来は長野県飯田市に祀ったが、 624年(皇極天皇元年)に現在の善光寺のある長野市元善町に移した。


 伏屋素狄(ふくやそてき)の顕彰碑

寛延元年(1748年)年-文化8年(1811年) 池田村生まれ(現・和泉市伏屋町・池田下町で光明池の自動車学校が有る場所) 古書によるとこの池田村にお墓があることになってるが見当たらないことから 1967年(昭和42年)11月に日本医師学会・日本生理学会が発起、 日本医師会が賛助し、「実験生理の祖 伏屋素狄」の碑が建てられました。
 伏屋素狄は漢方医学を学んで、大坂に移り開業。 五十を過ぎたころ、「解体新書」を読んでから西洋医学を学びだした。 生理学上の動物実験を何度も行い、「和蘭医話」を著した。 腎臓に墨汁を注入した実験で、「腎は小便の漉(こ)し役」であることを発表。 


このお地蔵さんはマリア地蔵さんらしい。。。



 宝井其角



池畔には其角の「仇なりと花に五戒のさくらかな」の句碑のほか、 善光寺如来出現を伝える記念碑や、歌碑・句碑・慰霊碑・顕彰碑などが建てられている。 (たからい きかく 寛文元年(1661)~宝永2年(1705) 「仇なりと花に五戒のさくらかな」の句碑



 実際に訪れてみて 四ツ橋には「電気科学館」があってプラネタリウムが上映されていました。いつ移転したんでしょう・・。きがつけば中ノ島に移転していました。

当時はレンガ風のボロボロの老朽化した建物でした。また厚生年金会館の近くで、よく通った楽器屋さんがありましたが今はもう別のお店になっていました。 時代とともに風景は移りかわりますが心の中にはいつまでものこっています。(2008/5/2)